一関高専の近くにかつて存在した温泉について調べた

はじめに

私は、趣味でよく昔の地図や航空写真を眺めているのですが、今昔マップ on the webで一関高専の周辺を眺めていたところ、大正2年の地図に温泉の記号が書かれていることに気づきました。
このエリアに温泉があったという話は聞いたことがなかったので、詳細について調べてみることにしました。

事前調査

まずは、インターネットでこの温泉に関する情報がないかを調べてみました。
その結果、以下の3つの文献が見つかりました。

5万分の1地形図 「一関」

大正2年(1913年)測量、大正5年(1916年)8月30日発行の地図です。
以下のリンク先の今昔マップ on the webから閲覧できます。

ktgis.net

一関高専のプールあたり、または一関工業高校の野球場あたりに温泉の記号があることが分かります。
今昔マップ on the webで閲覧可能な次の版である昭和26年(1951年)測量の地図では、温泉の記号は無くなっています。

須川温泉之栞 : 附・磐井名勝記

dl.ndl.go.jp

須川温泉之栞 : 附・磐井名勝記」の35ページに、以下のような説明文があります。

釜淵温泉
萩荘村大字下黒澤にあり、磐井川の河畔○石の間十二ヶ所より湧出する淡白無味なる微温の鑛泉にして諸病に特効あり

黒沢政吉 編『須川温泉之栞 : 附・磐井名勝記』,将文堂書店,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947827 (参照 2024-08-12)

「○」は判別できず
「な」は変体仮名( 変体仮名 210030020 - 学術情報交換用変体仮名 | 国立国語研究所 )

これによると、温泉の名前は「釜淵温泉(かまがふちおんせん)」で、名前こそ温泉ですが、「微温の」とあるように実態は鉱泉(25度未満)のようです。

岩手県下之町村

dl.ndl.go.jp

岩手県下之町村」532ページの、西磐井郡萩荘村の説明には以下のような説明文があります。

鑛泉
字釜淵にあり、濕氣蛇毒等に功驗ありといふ。

高橋嘉太郎 著『岩手県下之町村』,岩手毎日新聞社出版部,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020748 (参照 2024-08-12)

岩手県下之町村」からは、「須川温泉之栞 : 附・磐井名勝記」よりも詳しい情報は得られませんでした。

図書館での調査

帰省したタイミングで一関図書館に行き、何か情報が得られないか調べてみました。
図書館のレファレンスサービスなども活用し、新たに以下の2つの文献を見つけることができました。

萩荘

萩荘史」の692ページに記載された年表に、以下の記録がありました。

明治40年(1907年) 長田善十郎 釜ヶ淵に鉱泉浴場新築

萩荘文化協会 編ほか. 萩荘史, 萩荘文化協会, 1991. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000001-I04111101272540

このことから、遅くとも明治40年には温泉として利用されていたことが分かりました。

萩荘村史

萩荘村史の111ページには以下のような記述がありました。

釜ヶ淵鉱泉遊園地
云伝康平五年源頼義征夷に際し将士の創痍を療するに釜淵鉱泉を発見し洗条浴せしめたるに効能あり、又寛文年中伊達兵部鉱泉を汲取り入浴したるに効著しきを認め御用鉱泉とした、申伝、宝暦年間一関藩士今井純五郎当鉱泉を沸かし衆人に施したと又文化文政の頃黒沢町庄十郎(駒の湯守)温泉を行ひ、天保四年林屋敷、酉太郎不動明王勧請温泉経営したるに繁昌した。慶応四年千葉富右衛門再興舟にて脇田郷に運搬開業明治十六年菊池喜吉(大工)継続明治三十五年一関町柳沢まつゑ(佐藤平吉鍛冶屋)に開業仝三十七年後藤栄作仝四十年八月七日長田善十郎浴室新築仝四十一年十一月二十二日知事の認可を得盛んに行はれ一望広野の芝生宛らモーセンを布ふるか如く滝沢の嶮崖青松翠緑恰も油絵の如く酢獄の銀嶺天に摩して聳い心身修養の絶勝地なり藩政時代には武士の演練場として著名なりしに、時代の要求は競馬場として年々花競馬を挙行しグランド施設し希望ヶ丘と称し体育訓練に利用され、前途遊園地並みに体力向上等頗る有望の地なり、県衛生課の分析によれば
固形物総量 ○、二七六
カルシユーム 微
カリーム 痕跡
クロール 微
硫酸 微
硝酸 痕跡
硅酸 微
ナトリーム 著明
鉄 痕跡
石灰 微

医治効用
胃腸障害、皮膚病、湿疹、創傷、婦人科

小岩孝一郎,千葉庄松共著. 萩荘村史, 岩手県西磐井郡萩荘村役場, 1955.1.

かなり詳しい説明がありました。
要点をまとめると、

  • 源頼義が康平5年(1062年)に征夷のために進軍した際に発見した
  • 寛文の年(1661〜1673年)に伊達宗勝が御用鉱泉とした
  • 宝暦の年(1751〜1764年)に一関藩士今井純五郎が鉱泉を沸かして一般人も利用可能にした
  • 明治時代にかけて複数人が経営を行った
  • 明治40年(1907年)8月7日に長田善十郎が浴室を新築した
  • 明治41年(1908年)11月22日に知事の認可を得た
  • のちに競馬場としてグラウンドの整備が行われた

一関市史

一関高専の図書館で一関市史についても調べてみました。
一関市史第4巻の710〜711ページには、以下のような記述がありました。

釜ヶ淵鉱泉遊園地
磐井川流域の下黒沢と赤萩との間に二つの深淵がある。上流にあるのを雄釜といい、下流にあるのを雌釜という。雄釜は東岸に偏し、雌釜は西岸にあって深さ三丈余。雄釜は岩石の間より淡白無味の霊鉱を湧出し、釜ヶ淵温泉と称している。この鉱泉に関する伝承左に、
康平五年、源頼義が将士の創痍を治療するのにこの鉱泉を利用して効能があったという。
近世寛文年中、伊達兵部がこの鉱泉を汲み取り入浴し、効能が著しいの認め御用鉱泉としたという。
宝暦年間、一関藩士今井純五郎はこの鉱泉を沸かし衆人に施したと云う。
文化文政の頃、黒沢町の庄十郎(駒の湯守)が温泉を経営。
天保四年、林屋敷酉太郎が、不動明王を勧請し温泉を経営し繁昌したと伝う。
慶応四年、千葉富右衛門が鉱泉を舟で脇田郷に運び、温泉を再興したと伝う。
明治以降は、菊地喜吉(明治十六年)、柳沢まつえ(明治三十五年)、後藤栄作(回三十七年)等が継続経営し、明治四十年八月七日、長田善十郎が浴室を新築し、鉱泉の分析を県衛生課に依頼した。同四十一年十一月二十二日知事の認可をえて盛んに行われた。
この地は、藩政時代には藩士の演練場であり、その後競馬場として利用され、近年は希望が丘野球場として利用されている。

一関市史編纂委員会 編. 一関市史 第4巻 (地域史), 一関市, 1977.3, 10.11501/9569706. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001323993

内容としては、萩荘村史の内容を平易な表現でまとめ直したもののようです。

また、755〜756ページには長田善十郎(喜十郎)についての説明もありました。

長田喜十郎
下黒沢の江川堂講沢に生れる。幼にして学を好み、長じて勤倹、農業の先覚者として知られる。多年村議会議員として教育・産業・文化の向上に尽した。農村文化の向上は、青年子女の修養が根本であるとして、私費を投じて講習会をたびたび開いた。釜ヶ淵に競馬場を開設し、鉱泉を経営し、さらに上下黒沢の耕地整理事業の発起人となり、村民を啓蒙してこの事業の完成をはかった。又、電気事業の必要を説き、一関電気部より村内へ送電を受ける運動を起し文化の灯をともした。大正四年には、御大展記念事業としての村史編さん委員であった。なお、下黒沢村史の編さんを考え大野蓑笠の指導のもと資料収集に努めたことを付記する。

一関市史編纂委員会 編. 一関市史 第4巻 (地域史), 一関市, 1977.3, 10.11501/9569706. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001323993

長田善十郎(喜十郎)という人物は、温泉の経営だけでなく、教育への貢献、送電の運動、耕地整理事業の牽引など、地域の発展に貢献した偉大な人物であることが読み取れます。

調査結果のまとめ

以上の結果より、温泉の名前は「釜淵温泉」、または「釜淵鉱泉」と呼ばれており、900年以上の歴史がある温泉であることが分かりました。
温泉が利用されなくなった時期は不明ですが、大正14年の文献には記述があること、昭和22年(1947年)の地図では温泉の記号は無くなり競馬場となっていることから、昭和の初め〜終戦前後くらいの時期には温泉は利用されなくなっていたと考えられます。

hgis.pref.miyazaki.lg.jp

おわりに

地図を眺めていて見つけた温泉について色々調べてみたところ、思っていたよりも長い歴史のある温泉だったことが分かって驚きました。
高専に通っていた時は全く知らなかったので、しっかり調べて情報をまとめることができてとても有意義でした。
温泉が利用されなくなった理由は不明ですが、湯量が減少したという話は見つからなかったので、もしかしたら今でも温泉として利用できるかもしれません。

また、今回初めて図書館のレファレンスサービスを使ってみたのですが、司書の方が6人くらい登場して色々調べてくれたので、至れり尽くせり感がすごかったです。おかげでめちゃくちゃ詳しい資料が見つかったのでとても助かりました。一関図書館の皆様、ありがとうございました。

今回の調査ではさまざまな文献が見つかりましたが、写真や実際に利用したという話は見つかりませんでした。時代的に利用したという話を直接聞くのは難しそうですが、いつか写真が1枚くらいは見つかるといいなと思います。